昭和40年3月31日 朝の御理解


 やせ細っておるものが、いくら気張ってみたところで大した力がでるはずがない。やはり、体も太く大きい人がそして、えー、一生懸命例えば働くということによって初めて、力が出来るような。
 昨日、昨日一昨日が久留米の野口さんのところの謝恩祭でございましたから、昨日皆で一緒にお礼に出て見えられました。そしてからその話したんです。
 小倉のほうから富永先生が見えておられまして、そしてその、先生が言われることに、「まあしっかりこれでがんばらなければ椛目のご造営の事があれからしっかりみんなで頑張らなければ」と、それから、富永先生が言われる。
 「もりもりと食べて一つもりもりと働くぞ」ち。それがもうよう頂くんですたい、この頃もう、体もこげんして太っておられて、本当に、ほんに、病院のあの忙しい中から、まあ、あちらこちらに出張されるところも随分あるらしいけれども、一時の暇もないように、お祭りの日にもうぎりぎりまでおかげを頂かれてから、こちらに時間ぎりぎりに見えられておりましたんですけれども、結局その、もりもり食べてというところなんですよ。
 ね、もりもり食べて一つ、うー、一生懸命にがんばるぞと、どうでしょうかね、もりもり食べる事をせずしてから一生懸命がんばったら、もう体は憔悴してしまう。いよいよ、本番という時にはもうへこたれてしまっておるということではいけん。
 昨夜も丁度、25,6名でしたでしょうか、ご造営の委員の幹部の方達が集まって、最後の、色んな見当をなさっておられます。本当にやっぱその中心になる人達は、もうこの頃、おー、まあいうなら、不眠不休のいろんな活動をしておられるわなんです。ではなくても、ご造営の事で頭がいっぱいで、ご造営ご造営で、何か私昨日の、朝の二時ごろでした皆さんが帰られましたのが。これで、まあだ本番にかかる、かかる前に、みんながちった疲れよりゃせんかというものを感じたんです。帰りがけに。ね。

 本当に私は、んー、これではね、これでは本当の活動は出来ないと私は思うた。なんとは無しにそんな物を感じた。まだ、いうならほんな序の口とこういう。まあいうなら、序の口にもいっていないようなところ。ね、何か知らん、もう疲れたといったような感じを、私は受けたんです。
 ね、これはどういうことだろうかと私は思うんですけれどもね、まあ、最近ご造営ご造営の事でいっぱいなものですから、もりもり食べるほうがこの頃、怠たられておられるように思われます。
 このご造営ご造営を言い出したらですね、朝の御祈念、朝のお参りが少なくなったでしょうが。ね。それけん、皆が逃げ腰になっておるというのでは決してありません。やっぱ、後からまいって気よりますもん。その証拠には一日の参拝数の数は変わりません。いわゆるお道の信心は朝参りからといわれる位です。いわば、信心を身に付けるには朝参りからといわれますようにです、ね、もりもり信心の意欲が、あって初めて、すぐのいわば、一生懸命の御用が出来るのです。

 いうなら、氏子の、神の用をしておれば、氏子の用は神が足してやる仰るようなことでもです、疲れ果てたような、神様の御用では、神様が生き生きと働いて下さる場がないです。
ね。もりもり、食べて、いわばもりもりした元気が生れてくると。例えば、(?)さんとか永瀬さんあたりは、夕べは遅くまで、久保山先生もでしたが、でしたけれども、やっぱりこうして、朝の御祈念に参っておみえになられますもんね。
 だからその、勿論御用も大事ですけれども、御用よりも何よりも大事な事。ね、まあ、これは本当のことをいうたらですね、記念祭だからどうこうというてですね、皆さん一生懸命になっておられるのに、こんな事を言うたら、それこそ力が抜けると言われるかもしれませんけれども、本当のことをいうたら、ご造営の事なんかどうでもよいのです。
 ね、例えば、善導寺に3年5年教会の看板が上げられなかったって、えー、(?)です。問題はです、本当にです、実力がです椛目に本当の意味合いにおいてです、実力がです、ね、出来てからでは遅くないです。
 もう、(?)ばっかり心配しておるような事でどうしておかげが受けられるはずがないじゃないですか。ね。いわゆる、もりもり食べてと、いわゆるまず、ご造営に先立つのは信心の造営がまず大事だと言う事です。

 ね、もりもりするような私は、信心の意欲というかね、もりもり食べると言う意味合いにおいては、食欲です、食欲もないのに、もりもり食べる事は出来ません。何を食べても美味しくてたまらん。そういう時です血に肉になる。そして、もりもり働くから、私は本当の力が出来ると思うのです。どうでも一つ、もりもりとした信心意欲を頂かなければだめです。
 ね。その先に私はもりもりするような働きが出来る。いかに神様の御用だからというて疲れ果てたようなことで、ね、まだ蓋もあけん先からです、(?)心配するような事ではです、成就いたしません。ね。
 まず、信心の造営から、まず信心意欲から、もりもり食べて、ね、そして本気でもりもり働かせてもらうぞと、そして初めてです、ね、いわば、神の用をしておれば氏子の用は神がしてやるという体験も生まれるでしょう。
 疲れ果ててから、神様の御用に没頭しておいたところでです、疲れ果てるその心に、神様は生き生きと御働き下さることは出来ません。せっかく、皆さんがおかげを頂いておられるのでございますから、それは本当にあの、本当にある意味でですね、もうご造営ご造営の事でいっぱいなんです。
 
 ですからその、委員の方達なんかはやっぱり、(?)と。(?)というような状況が何人もあっております。もうこの事を考えたらああもこうもと、色々思いよりますと、(    ?    )。私は出来ん。いわゆる私は食欲不信になっていきよりゃせんかとこう思う。ね、神経衰弱になりますよそれでは。もののけになってしまいます。ね。ご造営に疲れたように、疲れるというのは、ね、もうそれこそ、その事に疲れたように、一生懸命になるとこれは、いわば涙ぐましい事に有り難い事です。けれども、それだけではいけんのです。
 生き生きとした、ね、食欲、もりもりと食べる。そしてもりもりとした働きと。ね。と言うことを一つ、前提においての事。これは例えば椛目を中心にした事だけではありません。もう皆さんの一人一人一軒一軒の問題でもしかりです。このことにあまり没頭しすぎ、いわば、心配に、四神様が仰るようにです、ね、「心配に打ち込まずに信心に打ち込め」と仰るのです。
 ね。いかにもその事に心配しよると。眠れんごと心配しよると。なら、人聞きはいいですね。「はあーあんたご苦労さんです」と言いたいけれども、それでは、本当の働きは出来るはずはありません。
 もりもりとした信心意欲からですもりもりと、いわば、食欲がです、何を食べても美味しいと。ね。会議の時にはやはり意見の対立といったような事も必ずありましょう。
 それをです、あれもこれもと総て頂きこなせれるだけの、ね、頂きこなせれるだけの私は健全な胃腸が必要である。

 ね。まず、食欲を旺盛にして、そして、もりもり食べて、さあ一丁もりもりと働くぞと、と富永先生が仰ったというその事からです、私は感じたです。それが私には特に椛目の特に中心になられるその、委員の方達、ね、それについて踊られる皆さん。なら、必要でなかろうかと思います。本当にただ、それを間違うておったら信心の意欲の方がただ、あー、と出てこなければならんのに、( ? )もう一月です、皆さんの朝参りも気が付いておられましょうけれども、朝の御祈念ががた落ちです。はりゃ夕べ、考え、それこそ眠られん事考えておったと。からいわゆるお参りが出来んと。
 ね。それでは言うに及ばず。ね、その事の御用に当たらせて頂くもの。まず何というても、信心意欲を旺盛にして、ね、もりもりした信心意欲から、何を頂いても頂きこなせれるだけの、元気がでる。ね。その元気な心で、私は神の用をさせて頂くところにです、氏子の用は神がしてやると仰るような体験も受けさせてもらい、有り勝たい事である、勿体ない事である、ね、自分ぐらいのものがこのくらいの御用をさせてもろうたら、もう例えば内のことは神様がこうして送り合わせを下さるという、感激の中に喜びの中に、出来る御用でなからなければ私は本当の御用は出来んのではなかろうかと思う。
 
 (?)私はそれよりも朝遅くなりましたからね、二時ごろ。もう最後にはこっち足を投げ出してから足をこうこう眠るような人たちもある。眠気もついておるような人たちもある。といったようなものを感じてですたい。これはまだその、本番の入口にも入っておらんのに、ね、これから、秋永先生が最後に言うておられました。半年ありますと。半年の間どうぞ一つまあ、あの、本気でこのことに打ち込んで下さいと。ね、この調子で打ち込んでおったら、もうそれこそあれも建たんこれも出来んといった用な事に私はなるような気がするのです。ね。
 まず一つ、信心の造営。まず信心の意欲。旺盛な。ね。そこから私は本当の生き生きとした御用。また生き生きとした神様の働きを自分達の身の上に、家の上に頂くことが出来るのであると言う風に感じるのです。
 
 それはある意味で涙ぐましいというような言葉でいうならです、本当に皆さん、昨日集まりのあった、二十二人あまりでした、二十六七人おったでしょうか、ね、どの人を見ても、一生懸命その事に取り組んでおる方達ばっかりなのです。本当に自分の(・)が出来よりまいと思いよります。ね。
 けれども、今から例えば疲れが見えるような事ではです、ね、そこに私は食欲不信が一番原因でなかろうかと私は思うのです。ね。どんなに、頑張るぞというたところで痩せ細っとるものがです、いくら、頑張ったところで大した力は出りゃしません。ね。これで太らせて頂いた。そして頑張った。初めて力はでるものです。
 なるほどこういう時に、いわば、徳の受け時、力の受け時だというても、まず何というても旺盛な信心の意欲がなしにいくら御用を頂いたって、それは疲れにまた疲れを覚えるようなものだと私は思うのです。どうぞ一つ元気な信心をなさって頂くださりゃなきゃいけません。
                             おかげを頂かねばなりません。